ホーム、スイートホーム

ホーム、スイートホーム

【僕のヒーローアカデミア 炎ホー】
2020/04/19発行 完売済
文庫p92/4Cオンデマ/500円

三年後くらいの未来で、轟夫妻離婚後、「好きな人がいる」などとぬけぬけと言い出した炎司にガチギレした冬美が家族会議招集する話です。
夫婦の離婚、炎ホーに対する家族の反応を冬美視点で書いているので、その辺りの取り扱いOKな方向けです。

サンプル文

 

 小さな頃、みんなが見ているアニメが嫌いだった。
 毎日放送される子供向けのヒーローアニメは、強くてかっこいい主人公が必ず最後に敵を倒す定番のもので、幼児にヒーローは正義なのだと教えるためのものだったのだろう。
 それだけならば、父親がプロヒーローだった冬美は、自分の父もヒーローなのだと得意になれたはずだった。
 しかし、オールライトという名の主人公ヒーローはあからさまに現実のNo.1ヒーローをモデルに作られていて、その仲間達も現実のプロヒーローを彷彿とさせた。その中で、主人公のライバルとして登場するファイアという燃えるヒーローが、冬美の父だった。
 ライバルとされながら、アニメの中で与えられた役割は主人公の引き立て役の道化で、すぐに怒って何も考えずに突進して周りを燃やし、収拾がつかなくなったところを主人公が助けにくるのが定番で、ヒーロー側だというのに子供達に嫌われるキャラクターにされていた。
 キャラクターに対する嫌悪は現実にも反映されて、アニメのキャラクターがしでかした間抜けな行動を、父がしたように笑う幼稚園の男の子と取っ組み合いの喧嘩をしたこともある。
 父は、娘が問題を起こした幼稚園から転園させると、そんなくだらないものを見るなと言っただけだった。母は、あれは作り話なのだから、取り合ってはいけないと諭したが、冬美がそう思ったところで周りの子供達がアニメの嫌われ者のキャラクターを現実のフレイムヒーローと同じものと考えるのは止められず、悔しい思いをし続けた。
 善良な一般市民や子供達に嫌われがちだった父は、それ以上に犯罪者達の恨みを買っていて、防犯の都合上、父がエンデヴァーであることは伏せていたから、子供達が皆喜んで見ているその番組を頑固に拒否していた冬美は奇異な幼児だっただろう。
 基本的には事件が起きて主人公が活躍するパターンを繰り返すアニメだったが、時折周りの仲間にスポットが当てられる回があった。
 普段、そのアニメを見なかった冬美が、何故その回をたまたま見たのか、経緯は覚えていない。
 珍しくファイアが主役だった回は、普段より間抜けさも控えめで、有名店のケーキを独り占めしようとする敵という、今考えると敵指定されるような犯罪なのか疑問に思うような悪役をみんなで倒して、いつもならそこで終わる話がもう少しだけ続いた。
 守った店のケーキの箱を持って家に帰ったファイアが、待っていた女の子にケーキを渡すと、火の粉の女の子は「ありがとう、パパ!」と無邪気に喜んで、炎の顔に長いまつげと口紅をした妻が「あなた、娘のバースデーケーキを守ってくれたのね!」と笑って頬にキスをした。ファイアは何も言わず、照れ隠しのように炎の顔の火力を上げる。
 時間にして一分足らず、これまで家族の設定など出てきたことのなかったキャラクターの意外な一面、という話だった。
 ファイアという炎を擬人化したようなヒーローが父をモデルにしていることは明らかだったが、あまりプライベートを表に出してこなかったエンデヴァーという男の家庭のことなど、制作スタッフは知りもしなかったに違いない。
 妻も娘も氷雪の個性の持ち主だったし、冬美は父をパパなどと呼んだことはない。たぶん父は冬美の誕生日を覚えていないし、ケーキを買ってきたことなどない。母が父にキスをする場面も見たことはない。
 母の言うとおり、ただの作り話だった。
 それでも、むしろ作り話だからこそ、その仲睦まじい夫婦と愛された娘の姿に憧れた。
 すぐ下の弟が反抗期の時に、強く詰られたことがある。
 冬美の言う普通の家族とは何だ、そんな有り得ないものを望んで何になる。この異常な家で、そんな見たこともないものを望むことが異常だと。
 見たことならあるのだ、幼児向けのアニメの作り話で。
 そう言えば、より弟を激高させることが明白だったので、何も言えなかった。
 望んだのは夢想だった。
 誤解されがちでも、本当はみんなの平和を守っているヒーローの父親は、本当は子煩悩で妻を愛していて、妻はそんな夫を深く愛して支えて、家庭を守っている。子供達はそんな父親を誇りに思って尊敬している。
 ホーム、スイートホーム。
 片仮名の音だけを覚えたそのタイトルは、もう少し大きくなってから意味を理解した。
 楽しき我が家、愛しき我が家。
 あいにくと冬美は轟家のことを、弟が言うところの歪みでもって必死に愛してきたが、楽しかったことは一度もなく。
 そのまま、幻の家庭は完全に潰えたのだった。

 母を迎えられる新しい家を用意して欲しい、と頼まれたのは、末の弟が高校一年生の冬休みの時のことだった。
 子供達にとって都合の良い立地の土地を選んで、母が穏やかに暮らせる家を作ってくれ、と望まれた。父の居場所のない新しい家作りを子供達に託したのは、間違いなく父の誠意だった。
 一般的な感覚を持ち合わせていないだけである。
 ずっと実家暮らしの新社会人や大学生、高校に入学したばかりの子供は、普通、土地を選んで買って、家を建てることに慣れていない、という認識が全くなかったようで、数ヶ月後に起きた大きな動乱を超えて、激務に次ぐ激務だった父がようやく落ち着いた頃に、何も進んでいなかった新しい家作りに、呆れた顔をされたのは大変腹立たしかった。
 まだ試験外泊の段階だった母と大学の実習で忙しい次男、高校の寮に入っている多忙なヒーロー候補生の末弟達と意見を擦り合わせるのにも時間はかかって、「新しい家」は半ばままごとのような夢の家の様相を呈していた。
 生まれ育った大きな純和風の家とは全く真逆の洋風の家を望んだ夏雄に、あっさりと落ち着かないから嫌だと言い放った焦凍が初めての兄弟喧嘩を勃発させたりしながら、あまり現実的でない希望ばかり出し合って、一向に話はまとまらない。
 冬美自身が出した希望と言えば、赤い屋根がいいな、という非常にふわふわとしたものだったので、もう少し何かないのかと弟達に笑われた。
 まるで幼い子供達がクレヨンを手に、たまに喧嘩もしながら一緒の画用紙に夢の家を描いているような有様で、計画などと呼べるような状態ではなかった。
 どこか現実事として捉えていない子供達に見切りをつけたらしい父親が、母を連れて先頭だって動き始めた。
 まだ定期的な通院が必要で体調を崩しやすい母に負担のないよう、あの父が気遣いながら、意見を聞き取って計画をまとめ、業者とのやりとりを引き受けている姿は新鮮で、なんだかまるで夫婦のようだった。
 新しい家を建てる土地を下見に二人で出かけたり、建材やキッチンのカタログを見て話し合っている様子は、初めてマイホームを立てる夫婦のように見えた。
 十年以上病室に引きこもっていた母と、元々いわゆるセレブと言われる出自で長年トップヒーローとして生きてきた父は、どちらも世間から少々ズレていて、夫婦で話し合っている様は別の意味で不安を覚えたが、同時にとても微笑ましかった。
 だから、途中から冬美は勘違いしていた。
 新しい家には、みんなで住むのだと。
 哀しい思い出の染みついた古い家から新しい家に移って、家族みんなでやり直すのだと、そんなつもりでいた。途中から両親が、それぞれの仕事や学業で忙しい子供達にあまり意見を聞いてこなくなったことにも、全く気づいていなかった。
 始まりは間違っていたかもしれない。長いすれ違いを経て、ようやく二人が夫婦として噛み合ったのだと思えた。これで、やっと本当の家族になるのだと、幼い頃の夢が叶ったのだと信じた矢先のことだった。
 子供達を集めて、二人は離婚すると言った。
 父は母を自由にしたいと言い、母は自立したいのだと穏やかに、きっぱりと告げた。新しい家には、母が一人で住むのだと。
 弟達は当然の顔でうなずいて、それから冬美を振り返った。
 どうやら、彼らはとっくに気づいてたらしい。
 両親が子供達の希望を聞かなくなった事実にも、それがどういった意味を持つのかも理解して、そして、冬美だけが「みんなで暮らす新しい家」を暢気に夢見ていることにも気づいていた。
 この状況に至って、ようやく周囲を見回せば、家族皆が冬美を気遣うように見ていて、以前から薄々と頭では理解はしていた、自分一人だけが家族という形に拘っている事実を突きつけられる。
「もう、いいだろ」
 口火を切ったのは夏雄だった。
「姉ちゃんが、がんばったから、うちはここまで来れたんだよ」
 もういい、の意味が理解できない。したくない。
 ご飯を作って、掃除をして、洗濯をする。
 ヒーローには向いてないと言われた自分にできるのはその程度のことで、それだって学校や仕事に行きながらするのは相当な努力が必要だった。それを一番理解してくれていたのは、弟の夏雄のはずだった。
 早々に普通の家庭や家族関係というものを見限った夏雄だったが、一体何になるのだと文句を言いながらも家事を手伝ってくれたし、今の今までこの家から出ていかないでいてくれた。
 帰宅時に律儀にただいま、と言い続けてくれたのは夏雄で、おかえり、と返せば普通の家のように思えた。
 家を家らしく維持し続けていれば、母がそのうちに戻ってくる。父は、冬美や夏雄には無理でも、焦凍のためならバースデーケーキを買って帰ってくるかもしれない。
 この家で無理だったとしても、新しい家でなら。
 そんな夢想を根拠にがんばってきた。
 父親の、苦労をかけてすまない、だとか、母親の涙声のごめんね、だとか、そんなものを聞くためにこの家を守ってきたわけではなかった。
 ここで労わるなら、謝るなら、どうして夢をかなえてくれない、と喚き散らすほど小さな子供ではもうなかったが、受け入れがたい現実をすぐに飲み込めるほど大人にもなりきれていなかったことを泣きながら理解する。
 とても馬鹿げたことに、新しい家の希望として冬美が唯一上げた赤い屋根さえ、幼い頃に見たアニメの中の家の色だったことを、今思い出した。
「冬姉」
 父ほどではないが、随分と背の伸びた末弟が屈み込んできて、左右色違いの目を合わせてきた。
「普通の家って、いつまでも親子が一緒に暮らしたりしないで、子供が大きくなったら出て行くもんじゃないか?」
 淡々として聞こえる声に一瞬反発しかけるが、これが一生懸命考えながらの発言だと知っている。
「焦凍は、出て行きたいの?」
「もう半分出てる。忙しいと帰ってこれない」
 プロヒーローとして人気急上昇中の弟は、東京を中心に活動していて、静岡にある実家には帰ってこない日も多い。
「夏兄も、研修期間が終わったら、どこに配属になるか分からないんだろ?」
 それは前々から告げられていたことだ。勤務先が近場になるとは限らない。
「冬姉だって、結婚したら出て行かないのか?」
 それは、考えたことがなかった。
「子供が大きくなって、進学とか、就職とか、結婚のタイミングで家を出て、正月とか盆に実家に帰ってくるってのが、普通の家だと俺は思ってる。だから、うちは、やっと普通になるんじゃないか?」
「……普通」
 憧れた、普通の家族像は、子供達が幼いことを前提にしたものだった。
 末っ子すらプロヒーローとして独立した今、弟が言うことが正しい。
「うちは終わるんじゃない、始まるんだ。…………それじゃ、ダメか?」
 ヒーローらしいことを言うくせに、最後の最後で弱気を見せる。変なところで不器用だ。
 子供達の中で最強の才能を受け継いで、父に愛されて、その為に一番傷つけられたのに、本当に強くて優しいヒーローになった、自慢の弟だ。
 弟達をこれ以上困らせられない。
「うん、そうだね……」
 気持ちの整理など、たぶん一生つかない。
 ぐちゃぐちゃでもとにかくまとめて押し込んで片付けて、欺瞞で糊塗して取り繕う。子供の頃、アニメの家族像に理想を見出して自分の気持ちを塗り固めた時と変わらない。
「みんな、進んでかなきゃね……」
 精一杯の矜持で笑う。
「私もお付き合いしてる人いるし」
 何、と声を上げかけた父の脛を末弟が蹴り飛ばすのは見なかったふりをして、夏雄に向き直る。
「夏雄も、彼女ときちんと話をしなきゃダメだよ?」
 大学に入ってすぐから付き合って長い弟の恋人とは、冬美もメールのやりとりをするくらいの仲だ。
 卒業後どうなるか分からないまま、なんの約束もない夏雄に不安を感じているのも知っている。
 姉命令、と半ば脅しつけて、女子人気が高いくせに浮いた話のない焦凍に目を向ける。
「焦凍は、好きな人ができたら紹介してね」
「…………それは、好きな時点で紹介していいのか?」
「……お付き合いし始めて、家族に紹介できるタイミングだったら紹介して。好きなだけなら、相談には乗るよ」
 順番を間違えると惨事になりそうな、少し感覚のずれた弟に段階を教え込む。
 一つ息を吸って、虚勢を張って両親に笑顔を向ける。
「お父さんもお母さんもだよ。好きな人ができたら教えてね」
 それぞれの人生を歩もう、となんとか笑ってみせた。

 そんな、いい話で幕を引いたのは、冬美自身だった。
 自分以外の全員が両親の離婚に納得し、選択を済ませていていて、これ以上自分だけが幼稚な家族観で彼らを縛り付けることで、今度は自分が家族を傷つけると理解したから、身を切るような正論に従ったのだ。
 綺麗事で済ませたのは、なけなしのプライドを振り絞ってのことだった。傷はそれほど浅くない。
 両親は一ヶ月前に正式に離婚し、母は出て行った。
 彼女のためだけに作られた新しい家に引っ越して、一人暮らしを始めた母の手伝いをしに週末の休みの度に通っている。旧姓の表札を見る度に、まだ生々しく疼く気持ちを少しずつ整理している最中だ。
 姉弟はまだ実家住まいだが、焦凍は多忙でなかなか帰宅できず、夏雄も大学卒業間際で何かと忙しいらしく不在がちだ。
 そのうち二人は家を出るだろう。寂しくないとは言わないが、弟達が一人前になって、そのうちに彼女を紹介しにきたり、結婚へと話が進む未来を想像すれば、素直に送り出せる気がする。
 未来へ進もうという綺麗事はちゃんと綺麗で、多少の痛みなら我慢できた。
 母が誰かと出会って、一緒にいたいと願うことがあっても、応援できると思う。
 どうしてそれが父では駄目だったのだろうという、哀しみや痛みは覚えるだろうが、飲み込めるはずだ。
 だが、今、突きつけられたことは飲み込めない。
「……お父さん、もう一回言ってくれる?」
 思っていた以上に冷え冷えとした声に、ぴきり、と空気が凍る音がした。
 否、手にしていた湯飲みの中身が凍った音だった。
 波立ったまま凍りついた茶をしばらく無言で見つめていると、父が卓の向かいで居心地悪げに身動いだ。
「……溶かすか?」
「いい」
 的外れな気遣いを拒否し、両手に包んでいた冷え切った湯飲みを横に置く。乱暴にしたわけではなかったが、ことり、という音が妙に大きく響いた。
「お父さん、もう一回言ってくれる?」
 繰り返すと、父が大きな身体を少し縮こませたように見えた。
「……好きな人が、できた」
 先程より歯切れ悪く告げられた言葉をゆっくりと咀嚼するように吟味し、飲み込めるかどうか悩む。
 確かに、言ったのは冬美自身だ。
 母に新しい未来を求めてもいいのだと、綺麗事を言った。それが現実になって、母に恋人ができても受け入れようと、思った気持ちに嘘はない。
 ただ、あの台詞に父を連ねたのは、いわゆる社交辞令だ。
 あの場面であからさまに父を省くのはよくないと、小学校教諭として仲間外れ、不平等を避ける習い性が咄嗟に発揮されただけのことで、本心だったかと問われれば怪しい。
 時間を置けば、受け入れられるようになったかもしれない。
 それは、少なくとも自分や弟達にそれぞれ相手ができ、この家を出て行った後であってほしかった。
 少なくとも、離婚して母が出て行って、たった一ヶ月で言い出されるようなことではなかったはずだ。
 正直な本音を言えば、気持ち悪い、その一言に尽きる。
 腹の底からぐつぐつとこみ上げてくる不快感をやり過ごそうと、ゆっくり吐いた息が白くなった。
 曇った眼鏡を外して横に置くと、細かな霜が付いていた。
「いつから?」
 眼鏡を外した自分の顔は、母によく似ているはずだ。少しぼやけた視界で、父がたじろいだのが分かる。
「……いつから、その人と付き合っているの?」
 努めて冷静になろうとすると、周囲を冷やす方に個性が発動するようだった。
「冬美?」
 戸惑った父の顔に大きく息を吸い込むと、きん、と冷えた部屋の空気に物理的に胸の奥が痛む。
 肺に痛みを覚えて、こほり、と小さく咳き込むと、少し身を引いていた父が身を乗り出してきた。
「冬美、これ以上冷やすな。おまえの身体に影響す……」
 個性のコントロールを失いかけていた冬美に差し出されてきた父親の手を、咄嗟に払いのける。一瞬でも火傷をしたかと思うような灼熱感を覚えたのは、炎熱の個性の父が何かしたわけではなく、冬美自身の身体が冷え切っているからだ。
 個性上、ある程度寒さには強いが、自身の体温をあまり下げれば動作に支障がでてくるし、最悪命に関わることは分かっている。最初冷えた室内の空気を実感させた吐く息の白さが薄くなっていく様で、身体の内部も冷えはじめていることは理解したが、どうにも個性の抑制が効かない。
 ぽっと目の前が明るくなって、オレンジ色の光が滲んだ。
 家では滅多に見ない、父の炎が周囲の空気を温めていく。手の上にだけ出された、蝋燭より少し大きい程度の炎で、あっさりと覆される室温に、父との能力の差を思い知る。
 長年、トップヒーローとして己の個性を研鑽し続けた男と、個性は抑制するものとして日々生活し、子供達にそう教える立場の冬美が比較になるはずもないのだが。
 テレビの画面越しに見るばかりだった炎を眺めていると、父が手を握りこむと同時に炎が消える。部屋の照明は点いたままなのに、部屋が急に暗くなったように感じるのは、炎を見つめすぎたのだろう。ちかちかと網膜に焼き付いた光にぼんやりとしていると、父が立ち上がって障子を開け、縁側のガラス戸も開けて空気を入れ換えた。
 強制的に温められた、少し焦げ臭い空気の代わりに、春先の湿った冷たい空気が入ってくる。
 部屋の灯りにぼんやりと浮かび上がる庭の白木蓮は、ちょうど咲き始めたところで、緩みだした蕾が暗闇に灯るように見えた。
「……寒くないか?」
 温められた空気は全部入れ替わってしまったが、先の冷凍庫内のような命の危険のある寒さではない。
 まだちらつく視界をゆっくり瞬きして睫毛に付着していた霜を散らし、一つ嘆息する。
 エンデヴァーという、今では社会に圧倒的な支持を誇るNo.1ヒーローは、轟炎司という一人の男としては、最低の人間だった。
 生まれた子供に己の望みを遂げさせようと考えて、迷いなくそれを実行に移した。そんな捻れた意思によって母は選ばれ、自分達は生まれてすぐに無用とされ、望まれた通りに生まれた末っ子は虐待と言って過言でない教育を幼いときから施された。
 子供達を父親から守ろうとして疲弊した母が病み、最初から歪だったこの家は壊れた。
 この家の歪みは父親に端を発するもので、彼自身の歪みがどこから生じたのかは当人が語ることはなかったので、誰も知らない。
 ある日、ふと振り返って、家族に取り返しがつかないことをしたのだ、と気づく程度の常識は持っていたのに、そうなる前に踏みとどまることなく、この家の悲劇を作り出した張本人だ。根本的なところで、まともではない。
 今も、不器用に娘のことを気遣っているが、そもそもこの状況に至らしめたのが自分自身だと理解しているだろうか。
 駄目だ。
 本当に、この人は、駄目な人間なのだ。
 しみじみと実感すれば、怒る気力も失せた。
「お父さん、座って。お茶、煎れ直すから」
 まだ氷片の浮いていた湯飲みを持って台所に向かい、別の湯飲みを用意し、湯気を噴き上がるやかんをぼんやり見つめていると、後ろから伸びてきた手がコンロの火を止めた。
「俺が煎れる」
 布巾も使わず無造作に素手でやかんを取り上げたフレイムヒーローは、熱湯を浴びたら火傷をするのだろうか。
 そんなことを咄嗟に考える精神状態だから、プロヒーローに心配されたのだろう。気がつけば危険なものから遠ざけられて台所の椅子に座らされていて、この辺りの手際の良さはベテランヒーローらしい。
 末の弟も、父のヒーローとしての能力だけは高く評価していた。
 案外慣れた手つきで煎れられた茶に口をつけると、普段飲み慣れたものより大分熱い。
 茶と一緒に感情を飲み込むと、冬美は改めて口を開いた。
「いつ、その人と結婚するの?」
「結婚?」
「そのつもりで言い出したんでしょう?」
 知名度の割にはプライベートの露出の少ない父だが、人気の新人ヒーローのショートと父子関係にあることは広く知られている。焦凍は女性人気が高く、週刊誌にも狙われやすいので、父の離婚後すぐの再婚などという下世話なスキャンダルに巻き込まれかねないことは考慮して欲しい。
 社会的な立場に配慮して欲しい、と無感動に告げると、どういう意味だと問われた。
「その人とずっと付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってないが?」
 どうにも会話が噛み合わない。
 ダイニングテーブルに落としていた視線を上げると、困惑した顔がそこにある。
「お父さんは、その人と結婚がしたくて、お母さんと離婚したんじゃないの?」
「違う」
 少しだけほっとして、その程度で絆されてはいけないと気を引き締める。
「結婚を考える以前に、付き合ってない?」
「ああ」
「じゃあ、その人との関係は?」
 矢継ぎ早に問うと、ここで父は少し悩んだ。
「……同僚?」
 疑問で答えるな、と睨めば、大柄な父が少し身体を小さくした。
「仕事の関係の知り合いで、好きだけどお付き合いはしてない、まだ結婚を考える段階でもない。そういうこと?」
「……そうだ」
 説明下手な低学年の生徒に対する態度に切り替えて問うと、こくりとうなずく。
「つまり、お父さんが、好きなだけ?」
「そうだ」
 面と向かって宣言されたからには、すぐにでも結婚を考えているのだろうと、つまりは以前からの関係で、母はずっと裏切られていて、体よく追い出されたのだ、とまで一瞬で思い詰めたのだが、少し様子が違う気がする。
「……それ、今日、私にわざわざ言う必要あった?」
「…………好きな人ができたら、言えと」
 確かに、言った。
 今、その発言を、心底後悔している。
「だから、考えてみて、好きだと思ったから言ったんだが……」
 僅かに冷えた台所の空気に己のミスをようやく悟ったらしい父に、深々と嘆息する。
「あのね、お父さん。もう、はっきり言うね」
 薄く表面に氷が張りかけた湯飲みをテーブルに叩きつけ、睨み上げる。
「デリカシーが、ない」
 血の繋がった父親ながら、どういう情緒を持ち合わせているのか、全く理解し難い。
 何故、離婚直後に、両親の離婚に一番動揺した娘に対して、最悪の言葉選びでそれを告げたかと問えば、その娘が「好きな人ができたら教えて」と言ったからだと言うのだ。
 言葉通りにしか捉えない不器用さは、末の弟に色濃く引き継がれている。
 こんな未熟な情緒で、人を好きになって大丈夫なのか心配にすらなってくる。
「……お父さん、一つ確認しておきたいんだけど、好きって、恋愛感情の意味で言ってるよね?」
 もはや、そこから確認が必要な気がしてきた。
「そのつもりだったが……、違ったか?」
「違いません。私は、恋人ができたら教えて欲しいと家族全員に言いました。それは、結婚を前提とした、私の家族の家族になってくれる人に会いたいという意味です」
 完全に教師口調で捲し立て、神経を逆撫でる父のこれ以上の言動を封じる。
「お父さんは、再婚を考えているわけじゃないの?」
「……それは考えていない」
 ほっとしたような、それはそれで心配な、複雑な感情を抱きながら、父親の恋愛事情なる、どう触れて良いか分からないものに向き直る。
 冬美にとっては問題の多い困った父親でしかないが、これでも五十を目前にして現役のトップヒーローで、昔に比べれば市民の人気も高くなった。最近は少し広告などの仕事も増やしていて、制作スタッフの腕がいいのか、なかなか渋くかっこよく撮ってもらっているから、女性の評判もそれなりに良いらしい。
 高額納税者として毎年名が上がっているので、財産、名声、渋好みならば悪くはない外見、と揃っていることになる。
 父が離婚して独身になったと世間に知られれば、案外面倒なことになる可能性が高いことに今更気づき、触れにくいなどと言っている場合でないと思い直す。
「お父さんが結婚を考えてなくても、その人はどうなの? お父さんの気持ちを分かってるの?」
 申告された恋心は、冬美が担当する児童のそれと大差ない気がしていたが、相手がそれを把握しているかどうか、またそれをどう考える人間かで問題の度合いが大きく変わる。
「あれは……、何も分かってないと思うが」
「あれ」
 親しげと受け止めるか、もうこの歳で矯正は難しいであろう傲慢さの滲んだ口調と判断するか悩んだだけだったが、生徒の言葉遣いを咎めるのと同じ響きになっていたのだろう、素直に言い直される。
「あの子は、俺がどう思っているかは知らないはずだ」
「あの子」
 再度言葉尻を捉えるように繰り返したが、聞き流すには引っかかる表現だった。
「若い人なの?」
 父の年齢からすれば、ある程度の年齢でも「子」扱いだろうが、せめて自分達よりは年上であってほしい。
「確か、今は二十六になったか……? 冬美と、同い年だ」
 父親が自分と同齢の女性に恋愛感情を抱いている、という事態に娘が抱く感情を理解してもらうことをきっぱりと諦めて、深く、深く嘆息する。
 このデリカシーのなさで、相手に迷惑をかけていないかの方が気にかかる。
「ごめん、本当に心配になってきた。お父さん、その人に迷惑をかけてない?」
「迷惑……?」
「理由もなく二人きりの食事、お酒に誘う。理由もなく高価なプレゼントをする。仕事の関係者なら、仕事を理由に必要以上に接触する」
 一つ一つ指を立てながら告げると、その度に動揺があったので、これは全部やらかした、と判断する。
 普通の大人の女性なら、そのアプローチの意図に気づかないはずがない。
「お父さんのしたことに、一つでも喜んでた? 困った顔してなかった?」
「…………困った顔はしても、最終的には笑っていたが」
「あのね、お父さん。それは、その人が大人の対応で、話を穏便に済ませるために、お父さんの気持ちに気づかないふりをしてくれているだけで、下手をすればセクハラでパワハラの案件です。事を荒立てたくないだけで、その人は遠回しだけど、きっぱりとお断りしています」
 愕然とした顔に少しかわいそうだとは思うが、ここははっきり告げておかないと、大変な迷惑を相手にかける。
「同僚、ってことは独立して事務所を持ってるヒーローだよね? 私はそんなに業界のことに詳しいわけじゃないけど、お父さんは長年トップクラスでヒーローを続けてきて、元サイドキックの人達もたくさん独立していて、色んな影響力があるでしょう? たぶん、すごく迷惑かけてるよ」
 ランキングが即ヒエラルキーという単純な話ではないだろうが、プロヒーローとしてデビューして三十年以上、上位から落ちたことはなく、No.1としてこの国に君臨した期間も長くなってきた。社会全体にも大きな影響力を持つ男は、ヒーロー業界の中ではより強い力を持つはずだ。
 二十代半ばならば新米ではないだろうが、サイドキック時代が長かったならば事務所は立ち上げたばかりの色々と不安定な立場かもしれない。エンデヴァーなどというトップヒーローに余計なちょっかいを出されては、吹けば飛ぶような立場では困り切るのが目に見えている。エンデヴァーのネームバリューを利用してやろうとするくらいのしたたかさがあれば、あからさまなアプローチに乗ってこないはずがないから、ひたすらに迷惑している可能性が高い。
 菓子折を持って謝罪に行きたい、と額を押さえていると、黙って考え込んでいた父が何か言いたげな顔をした。
「何、お父さん?」
「おまえが言った状況は、相手が俺より人気や財力、社会的影響力が低く、かつ、相手が俺に好意を持っていない場合じゃないかと思うんだが」
「夏雄……、なんでいないの……?」
 助けて、と弟の名を呼ぶ。
 少々気が短く、今でも父と折り合いが悪いが、何かあれば夏雄が真っ先に怒ってくれるので、冬美は冷静になれた部分が確かにあったのだ。
 たった一人で、この父相手に、この問題に向き合うには限界がある。
 突っ込みどころしかなかった父の発言の、比較的触れやすい方に焦点を当てる。
「その人、お父さんより人気があって、強くて、お金持ちでカリスマがあるの?」
 家族に二人もトップレベルのヒーローがいるため、客観的な視点を持てない上に、今はそうでもないが、父はオールマイトを引き立てる敵役のようにマスメディアに扱われていた時期が長く、下手に世間のヒーローの話題に触れると嫌な思いをすることが多かったため、冬美は積極的にヒーローの情報を集めることがない。
 受け持ちの児童の持つヒーローグッズや話題から、子供の間での人気度合いを推し量る程度なので、世間一般のヒーロー人気にはかなり疎い。
 それでも、父以上となれば、さすがに冬美も見当がつくと思うが、自分と同い年の女性ヒーローで該当する人物が思いつかない。
 すぐに名前の浮かぶ数名は、少し冬美より年上だったはずだ。
「ホークスさんが私と同い年で、その同期のヒーローっていうと……、ええと、あの大きくなる人……、ビッグレディ?」
「……それだ」
 名前が違った気がしたが、肯定されてしまったので、どんなヒーローだったか、曖昧な記憶を辿る。確か、子供に人気の高いシンリンカムイと恋人だったか、結婚だかしていなかっただろうか。
「彼女、結婚してない?」
「……そっちじゃない」
「……どっち?」
「マウントレディじゃない。ホークスだ」
 なるほど、人気の高いヒーローだ。
 ウイングヒーローの二つ名の通り、華やかな赤い翼で空を翔けて人々を救い出す、とても子供達の人気が高い若手だ。デビューして八年経ってもまだ若手と言える年齢で、ヒーローとして最年少記録を次々と塗り替えた派手な経歴は、冬美でも知っている。
 金髪に赤い大きな翼という見映えの良さで、様々なブランドやメーカーの広告塔になっているから、下世話な話、その辺りの収入を考えれば、父より稼いでいるかもしれない。
 有能で高収入、人気の度合いは父を遙かにしのぐことを考えれば、業界での影響力も大きいのではないだろうか。
 確か、女性誌などの特集で、結婚したい男性ヒーローとして毎年トップだった気がする。
 なるほど、ともう一度納得するが、全く文脈が理解できなかったので、父の問題発言に立ち返って、後半を吟味する。
「好かれてるの?」
「……ああ」
「好きだと言われた?」
「……いや」
「お父さんの勘違いじゃないかな」
 一刀両断して、大きく息を吐くと、また吐息が白くなった。
「話を整理するね。お父さんには、恋愛感情で好きな人がいる。相手はホークスさん。お父さんはホークスさんに好かれていると勘違いして、色々と迷惑行為をしている。そういうことでいいかな?」
「冬……」
「黙って。これ以上は、私一人では聞かない」
 声と台所の空気が氷点下に下がった。
「家族みんなで聞くから、黙って」