五月の病

 五月病とは、日本特有の病気なのだとゴールデンウィーク明けの最初の授業で現国の教師が言った。
 四月に新年度が始まり、入学や就職した新人が、新しい環境に馴染めず焦り、五月前半の連休の後にその馴染んでいない環境に戻ることに疲弊して鬱に陥ってしまうのだそうだ。新年度の始まりと大型連休の組み合わせの条件は、確かに他国ではないだろう。
 学校の授業は休みとは言え、休みの間ほぼびっちりと部活のあった運動部員にはあまり縁のない話だと思ったが、最終日に一日オフの休日があったためだろうか、終礼後、同じ部の部員達が机に突っ伏して呻いていた。
 新入生としてクラスの掃除当番でないなら、上級生達より早く部室に向かって器具の準備や掃除をしないとならないというのに、皆腰が重い。
「どうした、チャリ部?」
「部活に行くのが辛い……」
 弱音を吐いたチームメイトに黒田は目つきを鋭くしたが、最初に話を振ったクラスメイトは、インターハイ優勝常連である強豪部の練習の厳しさ故と判断したようだった。
「やっぱ、すげー厳しいの?」
「あー、まあ、練習は普通に、厳しいけど、それは覚悟してたことだから……」
 一年はろくに自転車に乗らせてもらえないし、機材も上級生優先だし、とぼやきが続いたが、そこは最初から心構えがあったようで、黒田は険しくしていた表情を少し緩めた。
「二年の先輩がさー」
 泣き言は、上級生に対する愚痴だった。
「すげー理不尽とか?」
「いや、もう、あの人がこの世に存在してることが理不尽」
 それもまた理不尽な評価だったが、黒田にもその理不尽な先輩に心当たりがあった。
「ああ、東堂先輩。あの伝説の」
「何のだよ! 何で倒置法だよ! 勇者かよ!?」
 全く自転車部に関係ない帰宅部のクラスメイトが、自転車部の理不尽な先輩と聞いて名前が出てくる上に、その日常会話で出てくるには仰々しい形容詞は何だと、思わず横から口を出す。
「え、一年の時に三年に殴り込みかけたとか、ファンクラブがあるとか、テニス部の二年のエース達が取り合ってた美人を横からかっさらっていったとか、女装してマネジやってたとかいう人だろ?」
 女子が騒いでる、と当然のように言われて、自転車部の面々ががっくりとうなだれた。
 半分ほどは知らない情報だが、その先輩の練習を応援にくるファンクラブなる組織だった女子集団がいるのは事実だし、彼がこの春に女装しマネージャーとして新入生を騙くらかしたのもただの現実である。仮入部最終日の一年だけの模擬レースで、女装姿のまま、それなりに速さに自信のあった経験者達もまとめてぶち抜いて心を折っていった。
 これがまた、大変美人だった上に偽胸を大きく作ってくれていたため、鼻の下を伸ばしてちやほやしていた一年が多かったので、皆のトラウマは深い。
 ゴールデンウィーク中の集中練習から、本来の姿に戻った彼と接することになったが、女装して二週間学校の授業まで受けられる男の性格は大変に独特で、その姿や行動に一年の心は日々削られている。
 放課後、部室に向かう足取りが重くなるのは仕方ない。
「オレは先行くからな!」
 そんな軟弱な気持ちに負けてたまるか、と黒田は声を高めて宣言し鞄を担いで教室を出た。
 東堂という男は確かにある種のトラウマだが、もう一人、黒田には天敵がいる。
 荒北靖友、東堂と同じく自転車部の二年の先輩で、態度や口調が荒く下級生には部内で一番恐れられている。
 普段のダラけた態度と、下級生に対する威圧的な言動に反発して噛み付いてみたところ、予想に反して口だけでなかったのは誤算だった。まず腕力であっさりとひねられて、自転車のタイムは大したことがないから、暴力と恫喝で周りを威圧してるのだと思えば、ゴールデンウィーク中のレースであっさりと負けた。
 後から、練習やレベルの低いレースでは、全く本気を出さないなどと他の先輩に聞かされて、心底悔しい思いをしたのはつい先日のことだ。
 絶対にあの男を追い抜いて、目に物を見せてくれると思っているが、どうにも黒田の空回りなのか、今のところ、あのだるそうな態度で鼻で笑われているだけで、相手にされている気がしない。
「あ、黒田ァ」
 苛々と歩いている横から、こちらの気も知らずに平然と声をかけてくるこの男が、本当に嫌いだ。
「くーろーだーちゃーん」
 語尾を伸ばす、癖のある口調の呼びかけにすぐに振り返らなかったからだろう、今度は名前の全てを伸ばして呼びかけてきた。
「……何すか?」
 次は下の名前をちゃん付けして呼んできかねないと、苦々しく振り返ると、すぐに返事をしなかったという理由で制裁のチョップを食らう。
「東堂見なかったァ?」
「見てないっす」
 賑やかな男なので、通りすがりにいれば絶対に気づいている。
 否定すると、舌打ちした荒北が鞄を黒田に投げつけてきた。慌てて受け止めた学園の指定鞄はずっしりと重い。
「部室に持ってけ」
「何でっすか?」
 強豪運動部にありがちなこととして、この程度の命令は黙って聞けばいいのだが、どうしてもこの男が相手だと反発が先立つ。
 無駄な反抗を見せた黒田に、いつも不機嫌そうな顔をしている男が、にやりと海外の子供向けアニメに出てくる狼のような表情で笑った。
「これから荷物が増えるからァ」
 よろしく、と語尾を伸ばして、どこかに向かった荒北の背に鞄をぶつけてやりたい衝動を押さえたのは、自制心がはたらいたというよりは、単純にこの隙だらけに見える男の不意を突こうとしても、直前で避けられる気がしたからだった。
 更に苛立ちながら二つの鞄をクラブ棟まで運んで、少々乱暴に放り出すと、鞄に書かれた持ち主の名を見た福富が首を捻った。
「何故、荒北の鞄を?」
「持ってけって押しつけられました!」
 呆れたことにあの男は、この長年の伝統を誇る強豪部の上下関係から逸脱しているようで、最低限の敬語は使っているものの、三年に対しても憚ることがない。三年もその態度を咎めていないので、一年生達の荒北に対する畏怖は増すばかりである。ただ、荒北はこの同学年の福富の言うことには逆らわないようなので、自転車部の力関係は複雑怪奇だ。
 福富は髪を金色に染め、にこりともしない強面の男だが、規律はきちんと守る。
 ひとまず、荒北の横暴を言いつけると、あまり動かない表情が最大限しかめられたようだった。
「どこに行ったか分かるか?」
「東堂さんを探してたみたいです」
「ああ……、では仕方ないな」
「は……?」
 味方になってくれるのかと思った先輩が、あっさりと裏切ったことに思わず声を上げる。
「荷物が大きいからな」
 荒北も同じようなことを言っていた。何か、荷物の運搬を任されていたのなら、それは上級生権限で手伝えと指示すればいいし、そこまで黒田は反発しない。
 説明が足りない、とまた苛立っていると、それより苛ついた様子でドアが蹴り開けられた。
「あ、荒北さん……!」
「お疲れ、さま、です……?」
 上級生が入ってきたのなら、背筋を伸ばして挨拶しなくてはならないのだが、一年達の台詞が途中で曖昧に消えたのには、それなりの理由がある。
 苦々しい顔をした荒北はいつも以上に凶悪に見えたが、それよりも担いでいる荷物が問題だった。
「東堂さん、どうかしたんですか!?」
「どーもしねーよォ!」
 前後不覚になっているように見える東堂に狼狽えた一年に、大きく顔を歪めて噛みつく。
 福富をはじめとした上級生達が誰一人として全く動じていないことに気付いて、二人が言っていた荷物とは、東堂のことを指していたのだと知る。
 とすると、怪我をしたというわけでもないのだろうが、荒北の肩に担ぎ上げられた東堂は、全く意識がないように見えた。
「寝てンだよ」
 後輩達が心配してることに気づいたのか、少し口調を和らげて荒北が告げた。
「……この状況で?」
 荷物のように担がれて、耳元で荒北が怒鳴り散らしているというのに、ぴくりとも動かない東堂に、そういうものなのだと投げやりに荒北が告げ、横で福富も深々とうなずいた。
「東堂だからな」
 さっぱり理解できないが、どうやら珍しいことでもないようだし、気にしたら負けな気がする。雑に担いできた荷物をベンチに転がそうとした荒北が、ふと何かを思い出したように福富を呼んだ。
「福ちゃん、パス」
「……渡されても困る」
「コレ、どう思う?」
 どうやら最大限の困惑を表現していた福富が、そう言われて意識のないクライマーの身体を受け取った。
「どうとは?」
「重さ」
「……言っておくが、オレはお前と違って東堂を持ち歩かない。比較できる過去データがない」
「オレも別に携帯してないんだけどォ! オレもこいつが普段何キロ維持してんのか知らねェよ! ……ただ、前より薄い」
 支えていたクライマーらしい細身を見下ろし、渋い顔をした福富が肩や背に触れてから、荒北に引き渡す。
「福ちゃん、戻さなくていーからァ」
 重いと吐き捨て、ベンチの上に雑に放り出した東堂の首がかくりと折れ、仕方なさそうに首を支えて戻した荒北が渋面になる。
「体重が戻っていないのか」
「食っちゃいるみたいだけど、かなり練習詰め込んでるから、そっちでまた体重削れてんじゃね?」
「自己管理はしているだろうが……、とりあえず荒北の考える元に戻せるか?」
「分かったァ、食わしとく」
「……オレとしては、お前ももう少しウェイト増やしてほしいんだが」
「オレのは体質ゥ」
 痩せ気味の尖った体格の荒北がそう嘯くと、福富は諦めたように嘆息する。
 その反応を気にせず、ソファに寝かせたクライマーの頭からカチューシャを引き抜いて机の上に投げ捨てた荒北が、周囲を睥睨した。
「黒田ァ、オレのカバン」
「それです」
 先程放り出したそれを指し示すと、また舌打ちして鞄を拾い上げて奥の更衣室に向かうと思われたが、不意に黒田を振り返って東堂を指し示した。
「黒田、そのバカ起きたら、バカって三回伝えとけ」
 できるか、とはさすがに口にしなかったが、顔には出ていたようで鼻の頭を指で弾かれる。軽い気持ちでやっているのだろうが、かなり痛い。
 やや涙目になって睨むが、荒北は気にせず更衣室に入って行った。黒田を除く新入部員達は、その後ろ姿が消えるのを待ってから、怖々と身動き一つしない東堂を振り返った。
「あの、東堂さん、大丈夫なんですか?」
 東堂と荒北はあまり仲がよくない。
 暇さえあれば何か言い合っていると言ってもよい。
 今のところ、口論以上に発展しているのを見たことはないが、とうとう荒北が殴り倒しでもして昏倒しているのではないかと、どれだけ手荒に扱われても目を開ける気配のない東堂の様子を泉田が訊ねると、福富が顔をわずかにしかめた。
 怒らせたかと一年一同が身をすくめたが、なんとなく、これは微笑したのではないかとすぐ横にいた黒田は思う。
「東堂は寝ているだけだ、問題ない。たまに荒北が拾ってくるが、自分で必要な時に起きるので、気にするな」
 そう言いおいて、愛車を担いで出て行ってしまった福富に、一年は顔を見合わせるが、別の二年もいつものことだから大丈夫だ、と言い添えた。
「……そういや、マネジやってたときも、寝落ちしてて、起きなかったような?」
 当時は完全に女子だと思いこんでいたので、下手に揺すったりなどできなかったのもあるが、どれだけ声をかけても目を覚まさなかったのを覚えている。他の一年と困っていたら、荒北が抱え上げて、今日のようにベンチに移していた。
 慣れたような扱いと態度に、もしかして二人は付き合っているのかと思ったのも、今では笑い話である。
 女装姿で二年の新開といちゃついていたので、一年の大半はこの二人が付き合っているのだと思っていたようだが、当時、荒北は非常に東堂の周囲を厳しく見張っていたし、東堂は一番荒北に対して気を張っているように黒田には見えた。
 新開がまた、その二人の微妙な関係を分かっていながら、間に入ってからかっているようだった。
 女装を解いた今、やってることが全く変わらないと知ったが。
 今日のこれも、上級生の反応を見るに、日常茶飯事らしい。
「まあ、割と荒北さんって、東堂さんのこと気にしてんだよな……」
 やることなすこと気になりすぎて、ついついそのまま喧嘩になるようだが。
 東堂も荒北の態度や行動が気に食わないようで、よく口出ししてはやはり喧嘩をしているので、どっちもどっちなのだろう。
 どちらも黒田のトラウマなので、勝手に喧嘩してくれていればいいのだが、最近、どうも気になるのが、二人の喧嘩に巻き込まれている気がするところである。

 昼休みに入ってすぐ、クラスの男子の数名が相次いで携帯を片手にガタガタと立ち上がった。青ざめた顔で小さな液晶画面に見入るその挙動不審にクラスの目線が集まったが、そこで立ち上がっているのが全員同じ部に所属していることに気づいて、嫌な予感がした。
 黒田も鞄に入れっぱなしにしていた携帯を引っ張り出して開くと、二年の新開から一年全員にグループ送信がされていた。
『一年は至急体育館に集合、森下、黒田、葦木場はダッシュ。東堂命令代筆』
「名指しかよ!」
 召集が東堂によるとのというだけで、嫌な予感しかしない。
 見なかった振りはできないかと一瞬考えるが、その後のことを考えれば、速やかに出頭しないと後が怖い。
 くそ、と舌打ちして走り出すと、慌てたように他の自転車部員も続いた。
 息をきらせて体育館に辿り着くと、黄色い悲鳴が上がっていた。
 嫌な予感しかしなかったが、同じく召集命令に従って集まってきた同学年のチームメイトと顔を見合わせて、互いに肩を落とす。その中に、同じく一年と思われたが、見慣れない顔の男子がちらほらと混ざっていて不審に思う。
 彼らも呼び出されてきたようで、仲間内で状況を確認し合っているが埒があかない。
 思い切って体育館内に足を踏み入れると、ぞろぞろと黒田に続いてくる。
「……バスケ?」
 体育ジャージにチーム分け用のゼッケンを付けて、二年の男子がバスケットボールに興じていた。
 人数が三人ずつなので遊びなのだろうが、ギャラリーが多い上に女性比率が高いので、声援も華やかだ。
「東堂様ー! シュート!」
 女子の声援の数で大体察していたが、コートの中で走り回っている一人が東堂だった。
 一際高く上がった声に応じるように、ゴールからかなり離れたところから無造作に放ったシュートは、リングの中央に音もなく吸い込まれた。
 きゃあきゃあと上がる嬉しげな悲鳴に対して、指を差してファンサービスをしていた東堂を、同じ黒いゼッケンを付けていた選手がはり倒した。
「アホやってないですぐ守備戻れ、このバァカ!」
「叩くな!」
「ッゼ」
 怒る東堂をだるそうに無視して、そのままの表情で相手チームのパスをカットした荒北が、そのまま面倒そうに片手でボールを緩く投げた。
 ボードとリングの間を跳ね返ったボールは、最終的にリングの内側に落ち、自転車部側に得点が加算される。
 何故この二人が一緒に仲良くバスケなどをしているのか、という疑問を覚えてから、今の雑なゴールに対して美しくないと騒ぐ東堂をデコピンで黙らせている荒北の姿に、仲良くはないと認識を改める。
 同じ黒いゼッケンを付けているもう一人も自転車部の二年なので、自転車部という括りでチームを組んでいるのかもしれない。
 相対するチームのメンバーに見覚えのある顔はいない。
「え、何、応援しろと?」
 一年は昼休みを返上して同じ部の先輩達を応援しろということだろうか、と首を捻った黒田に、横からのんびりした声が上がった。
「いやぁ、交代要員?」
「新開さん!」
 同じく、体育ジャージ姿の先輩が、昼休みに入ってもこの試合の観戦に付き合わされているのか、携帯食を齧りながら、メールで呼び出した下級生達に向かって手を挙げた。
「オレら体育合同で、今日バスケだったんだけどさ。色々あって、テニス部とバスケで決着付けることになったんだ」
「今、大事なところ、超省略しましたよね?」
 のんびりとした男の表情が曲者なのは、入部して一か月ほどで悟っている。
「んー、テニス部に尽八が絡まれて、チャリ部ごと馬鹿にされて靖友がキレて、あれ、今ガチ勝負中」
 やはり原因はあの男か、とげんなりする。
「で、向こうも割と強いし、今の試合はうちが勝ちそうだけど、そうすると引き分けで。これ以上続けると、昼飯食いそびれるじゃん?」
「はぁ……」
 引き分けで勝負を切り上げればいいのではないかと思うが、そうもいかないらしい。
「ってことで、代理戦争に一年召集かけたのがさっきのメール」
「……一年が代わりに試合しろと?」
「がんばれ」
 ぽん、と肩を気さくに叩いてくるが、東堂が言い出したにしろ、召集メールを発信したのはこの男だ。一年に対して温情があれば、そんな真似はしないだろう。
 抗議をしようと肩に置かれた手を振り払って食ってかかりかけるが、飄々とした先輩は既に下級生達から意識を逸らしていた。
「靖友ー! ダンクやって、ダンク!」
「できっかァ!」
 無邪気なリクエストに怒鳴り返しつつも、残り時間が少なく既に勝ちが確定した得点差だったからか、最後に大きく跳んだ荒北が直接ゴールにボールを叩き込んだ。
「あ、できた」
「このカッコつけめ……!」
 味方がゴールしたというのに、その背を蹴りにいった東堂に、もはや何も言わずに荒北が掴みかかったところで、終了の笛が鳴った。
 ゲーム終了というより、喧嘩の仲裁に聞こえたのはご愛敬である。
 試合結果がどうでもいいのか、そのまま言い合いを続ける二人に慣れているのか、周囲も止める様子はない。
「お前はチビだから届かねェもんなァ?」
「小さくないな!?」
 ならやってみろ、とけしかけられて、東堂が受けて立った。
 少し手前からドリブルをして、ゴール前で思い切りよく跳んだ。東堂は荒北が馬鹿にするほど身長が低いわけではないが、ここは数センチの差が大きい。指先がどうにかリングに引っかかる程度だったが、確かにダンクといって差し支えないシュートを決めた途端、女子の悲鳴が爆発した。
 こういう場面で失敗しないところが、大変腹の立つ男である。
「おお、尽八よく跳ぶなぁ」
「あの人、満遍なく運動神経いいっすよね……」
 自転車競技というのは少し変わったスポーツで、自転車でどれだけ速くても自転車を降りると運動神経が今一つという選手が意外と多い。自分の足で走ったり跳んだりというのが、あまり得意でないのは、たとえば黒田と同じ中学出身の泉田などもそうだ。
 試合中の動きをみる限り、荒北も相当動けるようだし、どちらも腹の立つ先輩である。
「そういや、新開さんは何で参加してないんすか?」
「ん、ダブルドリブル? とかいうの三回やったら、靖友に出てけって追い出された」
 勝てなくなるので切り捨てられたらしい。
 そういえば、名指しで呼び出された黒田は中学時代、バスケ部の助っ人も務めていたくらいだし、もう一人の森下は確か元バスケ部と自己紹介していた。
 葦木場は動けるかは分からないが、その高身長で選ばれたのだろう。
「うわ、マジで勝つ気だ……」
 えげつないとぼやくが、向こうもだよ、とのんびりと告げた新開に、テニス部側が呼び出した一年の姿を見ると、身長のありそうな三人を呼び寄せていた。
「……向こうと、どんなトラブルあったんすか?」
「それがよく分かんねーんだよなー。チャリ部って、他の部と練習場の取り合いなんかはねーし、部ごと敵視される覚えはないんだよ。尽八がまた何か巻き込まれたかなー」
 傍迷惑な先輩である。
 トラブルメーカーの自覚があるのかどうか、東堂自身は取り巻きの女子に囲まれてドリンクまで渡されて労われている。
 こういうところで、余計な敵をつくっているのではなかろうか。
 腕いっぱいにペットボトルを抱えて戻ってきた東堂が、新開にカルピス飲料を差しだし、サイダーを荒北に向かって放ると、自分はスポーツドリンクに口を付けた。炭酸を投げるな、と怒った荒北に、東堂が言い返すより早く、女子の抗議が上がった。
 口々に上がる罵言をまとめると、荒北にあげたわけではない、東堂くんの優しさを何だと思っている、東堂くんの邪魔をするな、東堂くんの後ろに引っ込んでいろ等々で、集中砲火に心が折れそうなものだが、食らった荒北は平然と言い返した。
「っせ、ブス」
「荒北さん、スゲェ……」
 欠片も憧れないが、その精神力には驚嘆する。
 ますます高まった女子の怒号にも全く動じていない姿に、東堂が肩をすくめた。
「モテの格差社会だな」
 普通言わないだろうと思うことを平然と口にする点では、この男の精神構造も並大抵ではない。
「でも、靖友モテるぜ?」
「まぁな」
「えっ?」
 あっさりと言った新開を東堂も消極的に肯定し、思わず声を上げる。
 ファンクラブなどというものが実在し、学園内で様付けまでされている東堂も何なのかとは思うが、この男はまず顔がいい。女装姿に一年の誰も疑問を覚えなかったくらいに整った顔は、女子受けがいいのは分かる。そして今の試合で分かる通り、運動神経もよく、一部で山神という大層な二つ名も囁かれるようになっている選手だ。
 ある程度顔がまずくても、選手として実力があればそれなりにモテるものだというのに、顔がよく、サービス精神も旺盛なのが東堂だ。
 たぶん、あのファンクラブなる集団は、この一風変わった賑やかな男を学園のアイドル扱いして悲鳴を上げるのが楽しいのだろうと黒田は思っている。
 新開もまた、東堂とは異なる種類の男臭さのある美形で、選手としての実力もあるのだから、女子に騒がれている。東堂のように集団化してファン活動に勤しむわけではないから、そこまで目立たないが、差し入れをもらっている姿はよく見る。
 この二人は分かるが。
「荒北さん、モテんすか?」
 あまり公式レースの出場がなく、出ても福富のアシストに徹することが多いためか、目立った上位の記録がないので、あまりその実力が知られていない。普段の練習の態度はいい加減で、黒田も当初完全にこの男は口先だけだと思っていた。
 加えて、目つきが悪くてすぐに顔をしかめて相手を睨みつける。ブス呼ばわりされた女子達が、歯に衣を着せずに不細工と言い返しているくらいだ。更に、すぐに怒鳴り散らし、口が悪い。
 総合的に、女子に好意を持たれる要素が見当たらない。
「え、モテるよ。オレも時々、あ、女子なら今恋に落ちてた、って思うし」
「本人は、さっぱり気づいてないがな」
「教えてやればいいのに」
「いやだ」
「靖友、なんかその辺すごい鈍すぎて心配になるんだよ」
「だったら、お前が伝えてやればいいだろう」
「いや、オレはそっと見守りたい」
 だからどこがだ、と、女子集団と言い合っている男に目を向ける。
 その横では、一年に何か指示を出していたテニス部員達が、先程の二人に対抗しようというのか、ダンクを試しはじめていた。そちらはそちらで、女子の声援が上がっているので、彼らもそれなりにモテ組のようだ。
 明らかに荒北は違うだろう、と思ったそのとき、ボードに一度バウンドさせてからリングに叩き込もうとしていた男子が力加減を間違えたのか、ボードの角にボールをぶつけ、思わぬ方向に跳ね返った。
「危なっ」
 荒北に抗議をしていた女子の一人にかなりの勢いで迫ったボールを、その横顔にぶつかる直前であっさりと荒北が受け止めた。
「ッブネェだろがッ!」
 怒鳴ってボールをゴールに投げ込む顔はいつも通りである。
「ああいうとこ」
「あいつ、更にあの顔で猫好きで、昼休みにこっそり餌やったりしてるからな。狙っているんじゃないのか、あれ?」
 きっぱりとその様子を指さした新開に、東堂が渋い顔で言い添える。
「黒田もああいう真似が素でできるようになるとモテるぞ?」
 もしかしなくとも、東堂の中で黒田はこの中で一番モテない層に位置しているようで、アドバイスの形で気軽に心を折ってくるこの男は山神と言うより鬼だと思う。
「おい、そこ! いつまでくっちゃべってンだ、黒田アップしてンのか!」
 心を折られた上から負荷をかけてくるのが荒北である。
 結局、鬼のような先輩達は自分達が勝手に始めた勝負を一年に丸投げすると、購買に昼食を買いに行き、試合を野次りながら昼ご飯を食べ、最後までトラベリングという反則を理解しなかった葦木場に悩まされながら、昼休みを全部使ってどうにか勝ちをもぎとった一年達に労いの言葉とカレーパンをくれた。

「……マジでいるし」
 昨日と違い、今日は先輩からの理不尽な呼び出しもなく、天気もよかったので、購買で買った昼食を持って散策がてら広い学園の裏手に向かうと、先客がいた。
 事前情報として、荒北が校舎の裏で猫に餌をやっていると聞いていたので驚きはないが、なんとなく疲労感を覚える。
「ベタだな、あの人……」
 普段怖いと思われがちな態度で、実は動物には優しいというのは、少女漫画でも最近見ないような設定な気がする。
 上級生が意味深に洩らす情報では、一年前の荒北は手の着けられない不良だったというので、本当ならベタにも程がある。
 どんな顔をしているのか見てやろうと、こっそりと近づくと、予備動作もなくベプシのボトルが投げつけられた。空のアルミボトルが地面に跳ねてけたたましい音を立てる。
「ナニしにきた?」
「問答無用で投げつけるとか! ってか、アンタこっち見てなかったっすよねえ!?」
「ニオイで分かンだよ!」
「動物か!」
 先輩にその口の利き方はなんだと、転がって戻ってきたボトルをもう一度投げつけてきた荒北に、今度は受け止めて近くのゴミ箱に放り捨てると、ち、と舌打ちをする。
 実に尊敬できない先輩である。
「つーか、乱暴するから猫逃げてんじゃないすか」
「アァ? すぐ戻ってくんだろ」
 最初に荒北がボトルを投げつけた瞬間に逃げ出していた黒猫だが、荒北が足下の猫缶を爪先でつつくと、茂みの中からそろそろと這い出て足下に戻ってきた。
「あんたに慣れてんすね」
 懐いているという意味でなく、荒北の乱暴な所作に慣れていて、危険がないと判断したら戻って食事を続けられる野良猫の強かさを指している。
 ニュアンスを汲み取ったようで、デコピンを食らったが、立ち去れとは言われなかったのでベンチにどっかりと居座って昼食を広げると、荒北がどこか呆れたような顔をした。
「お前も懲りないねェ……」
「何がですか?」
「根性あんね、って話」
 誉められたのだろうか、と悩む横で、訳の分からない男は猫をかまって遊んでいる。真面目に考えるだけ馬鹿を見る気がする。
「そういや、東堂見た?」
「女子に囲まれて独壇場でした。あの人、そのうちリサイタルとか開きそうですよね」
「音痴だぞ、あいつ」
 一言で片づけた後、少しだけ荒北が言葉に迷った気配があった。
「飯なら食ってましたよ、東堂さん」
「……ナマイキだよネ、お前」
 言いにくそうだったから先回りしてやったら、この言い種である。
「そんなに気になるなら、寮みたいにつきまとって食わせりゃいいじゃないすか」
 ここのところ、寮生活で朝夜の食事の場で、東堂の皿に勝手に盛っている荒北である。勝手なことをするなと東堂が怒っていたが、しばらくの攻防の後諦めたようで、足された分も食べている。
「昼まで口出すと、さすがにキレっからなァ」
「何やってんすか、あれ?」
「福ちゃんが、もう少し東堂の体重増やせって言うからァ」
 この前、寝ている東堂を受け渡しながらしていた、あの会話のことだろうか。
「クライマーは軽い方がいいんじゃないすか?」
「軽けりゃいいってもんじゃねェし。あいつ、たぶん一年の時と同じつもりで食ってるけど、ガタイと運動量変わってんだから同じでいいわけねェんだよ。一回体重落として、元に戻そうとしてるけど、元の数字の設定が間違ってる」
 猫を構いながら、何気なく言うその台詞を、当人にちゃんと伝えれば諍いにならないのではないかと思うのだが。
「オレが言ってもダメだな。嫌われてっからァ」
「はぁ?」
 何を言っているのだと、思わず声を上げる。
 それはもう、いい加減にしてほしいと思うくらい一日中喧嘩をしている二人だが、どう見ても喧嘩友達というものだろう。
 呆れた黒田に対し、当人は本気のようだった。
「あいつ、オレのこと最初から一貫して嫌ってンぞ。今回のは福ちゃんの意向って分かってるから、渋々食ってるだけで」
 心にもない偽悪的な物言いが多いことは理解したので、少しこの男の言動に腹が立たなくなってきたところだが、今回は本気で言っている気がした。
「あの……ッテ!」
 何か言おうと口を開きかけた瞬間、生意気、とまたデコピンを食らう。
 上級生の問題に口を出すなということだろうが、前に新開が言っていたように、この男、人の気配にも感情にも動物のように鋭いくせに、肝心なところが異常に鈍い気がする。
「……あんた、そのうち女に刺されたりすんじゃないすか?」
「どういう意味かなァ?」 
 猫を片手でじゃらしつつ、こちらを見もせずに頭を片手で掴んで力を込めてくる鬼のような先輩に、慌てて降参を申し出る。
「女問題で部を巻き込む東堂さんも、どうかと思いますけどね……」
 解放されても痛む頭を抱えながらぼやくと、荒北が不審げに振り返った。
「今、何つった?」
「別に何も!」
 これ以上墓穴を掘るまいと口を噤もうとするが、荒北はその胸倉を掴んで引き寄せた。いつものだるそうな雰囲気をかなぐり捨てた男から、黒猫が速やかに逃げ去って、今度は戻ってこなかった。
「東堂が、部を巻き込んだって何だ?」
 低く問われ、一年の間で噂になっているゴシップをこの男が知らなかったことを知る。
「……この前のテニス部のって、それじゃないんすか?」
「最近、テニス部の連中が東堂にやたらと絡んでることか?」
「テニス部員の彼女を、東堂さんが取ったって噂が……」
「ンなワケねーだろが!」
「オレに言われても!」
 派手に騒がれて、おもしろおかしく吹聴される東堂の噂話を小耳に挟んだだけだ。どこまで尾鰭がついているのかは知らないが、女子に騒がれるのを楽しんでいる節はあるから、特に疑問にも思わなかった。
「この前から絡んできてる奴が、東堂に女取られたって言ってンのか?」
「オレも、詳しくは知らないんすけど……、テニス部のエース『達』が取り合ってた女子を、横からかっさらった、みたいな?」
「エース達?」
 複数形が気になるところである。聞いた時は、トンビに油揚げをさらわれた、というような笑い話のようなニュアンスだった気がする。
 その時は、またあの男の理不尽が炸裂したのかと話半分に聞き流していた。
「あの、ちゃんと聞いてきましょうか?」
「一年の間では噂になってんのか?」
 うなずくと渋い顔で考え込む。
「……ちょっとこっちでも調べる。東堂には絶対さっきみたいにぽろっと言うなよ?」
 本気で凄んできた荒北にこくこくとうなずくと、ようやく胸倉を掴んでいた手を離してくれた。
「……あんた、東堂さんのこと、大事にしてますよね」
「してねェよ!」
 ついぽろりと口にした一言に、荒北の怒声が上がった。

 放課後、所用で遅れると連絡してきた荒北が、その所用の内容を全く伝えてこなかったので、東堂がサボりと判断を下した。どうせ校舎裏にいるから、耳を掴んで引っ張ってこいという理不尽な命令に、黒田が指名された。
 何で自分が、と抗議すると、毎日荒北の後ろにくっついているだろうと、大変不本意なことを言われた。
 ごねても無駄だったので、仕方なく向かったいつもの校舎の裏で、荒北が珍しく黒猫を腕に抱いていた。
「……嫌がってません?」
 逃げようともがくのを、強引に押さえ込んでいるのが目に見えて、思わず声をかける。
 生徒達を餌をくれる存在と考えている学園在住の猫達は、基本的に愛想がいいが、やはり野良である。自分からは足下にすり寄ってくるし、伸ばされた手に甘えてみせたりはするが、抱き込まれて拘束されるのは嫌なようで、下手に抱え上げようとするとしたたかに引っ掻かれて逃げられる。
 荒北もその辺りは分かっているようで、これまで撫でたりじゃらしたりはしていても、抱き上げようとしたことはなかった。
「黒田、邪魔ァ、消えろ」
 開口一番、どういう言い種だといらっとするが、それ以上に荒北が苛立っていた。
 表情と抱えた猫が全く合っていない。
「猫、かわいそうでしょうが」
 指摘すると、渋々と緩めた手から猫が逃げ出して行った。今回は、数日は近づいてこないかもしれない。
「お前のせいで、逃げられたじゃねェか!」
「超理不尽なんすけど!?」
 何で嫌がる真似をしていたのかと噛みつくと、途端に荒北が視線を逸らして言い淀む。
「……猫、いたほうが警戒されねェかなァみたいな?」
「誰に?」
 答える気はないようなので、一つ嘆息して自分の用件を告げる。
「東堂さんが部活サボんなって超怒ってんで、すぐ来てください」
「さっきから、めっちゃメールと電話来てるけど、知らネ」
 それを無視されているから、東堂が怒っているのだが。
「戻って、いなかったって言ってこい」
 それを伝えに戻ったら、荒北とは別の次元で勘のいい東堂にあっさり嘘だと看破されるのが目に見えている。
 正直に、猫にかまけていましたと伝えようと、踵を返しかけたところに、校舎の角を曲がって女子生徒がやってくるのが見えた。
 背に刺さった舌打ちに、荒北が見られたくなかったのは彼女だと知る。
「へ?」
 放課後、校舎裏、女の子の呼び出し、警戒されたくない、とキーワードが並んで、思わず振り返ると、拳を固めたジェスチャーで、とっとと立ち去れと示された。
 その乱暴な所作は丸見えではないだろうかと思いながら、失敗に終わりそうな告白イベントの場から立ち去ろうとして、すれ違った不安げな表情の女子の顔が引っかかった。
 また無理そうな、という感想が第一にくる美人だったが、どこかで見覚えがある気がする。ネクタイのラインの色からして二年生のようなので、通常、黒田が接する機会はないはずだが。
「…………覗いたらキレんだろうな」
 気配に聡い男なので、すぐに気づかれるのは目に見えている。気になるが、どうしたものかと後ろ髪を引かれながらゆっくりと歩いていると、角の向こうから信じられないと女子の金切り声が上がった。
「早くね!?」
 告白が失敗したにしても、こんな声が上がるような決裂とは何だと振り返る。
 挨拶もせずにそのまま襲いかかったくらいの勢いではないかと焦るが、ばたばたと角を曲がって駆けてきた女子の顔は真っ赤だったが、特に着衣に乱れはなかった。ほっとする間もなく、彼女を追いかけてきた荒北が黒田の名を叫んだ。
「黒田ァ、そいつ止めろ!」
 先輩命令だが、それは人として従ってよいものかと一瞬悩んで棒立ちになった黒田を避けようとして、女子生徒が足をもつれさせた。危ない、と咄嗟に黒田が手を差し出す前に、追いついた荒北が彼女の腕を掴んで崩れた姿勢を立て直させた。
「危ねェから落ち着け!」
「はっや」
 本当にこの男、運動神経だけは良い上に、絶妙にいいところを持って行く、と思わず感心していると、黒田をじろりと睨んだ荒北が役に立たないと悪態を吐いた。状況も理解できないのに、かわいい女子を捕まえろなどという命令に従えるかと睨み返すと、横暴な上級生は後輩を無視して、腕を掴んだ女子に向かって屈み込んだ。
「どこ行く気だ?」
「テニス部! あいつら、殴ってやる……!」
「落ち着け!」
「だって……!」
「騒ぎでかくなると、東堂巻き込むぞ」
 この様子を端から見たら、婦女暴行現行犯で取り押さえられる上に、自分も共犯扱いになりはしないだろうか、と思うほど取り乱していた女子が、荒北のその一言でぴたりとおとなしくなった。
 代わりにその瞳にぶわりと涙が膨れ上がって、一瞬荒北が怯んだ。
 両手で顔を覆ってうつむいた女子に、珍しく狼狽えた顔をした荒北が、一つ嘆息して掴んでいた手を離して更に身を屈めた。
「ヤだろ?」」
「……東堂様に、迷惑かけずに、どうにかできる方法ある?」
 顔を覆った手の隙間から、湿った声が問いかける。
「オレもどうにかしたい」
 ほとんどしゃがみ込むほど身を屈めたのは、威圧感を与えないようにだろう。険のない困り顔は珍しい。
「話、できっか?」
 無言でうなずいた女子にぎこちなく笑った荒北が、黒田を見やって大きく顔を歪めて財布を投げつけてきた。泣き出す寸前の女の子に対するようにしてほしいわけではないが、扱いの差が酷い。
「黒田、飲みモン買ってこい」
「パシリっすか!」
「行け!」
 吠えるような声に従って、財布を手に走り出すが、さっぱり状況が分からない。
 やはり、付き合ってほしいなどと告白したわけではなかったようだが。
「東堂さん絡み……?」
 先日、テニス部と東堂にまつわる噂の真偽を確かめると言っていた。会話の中に出ててきた単語からして、間違いなくその件だ。
 彼女が、東堂が横から奪ったという女子なのだろうか。
 そこまで考えて、はたと彼女がどこで見かけたのか思い出した。
「あ、ファンクラブの人だ」
 きらきらとした飾りを付けたウチワを振って歓声を上げていた姿を覚えている。
 間違いなく、東堂ファンクラブの一人である。
 ファンクラブの会員達はいつも集団で楽しそうにしているので、単独で硬い表情をしているとイメージが違った。
 符号はいくつかはまったが、結局どういうことなのかはさっぱり分からない。とりあえず命じられた通り、自販機まで走って少し悩んで女の子向けにミルクティーを買ってみる。荒北も飲むのだろうから、いつも飲んでいるベプシを探すが、自販機で取り扱っていない。一つ先の自販機まで走ってみたが、やはりなかったので、ひとまずポカリを買って走って戻る。
 少し時間がかかったせいで、二年の話し合いはもう済んだようだった。遅い、と荒北に叱られながら差し出した紅茶の缶を、ありがとうと笑って受け取った女子生徒はやはり美人だった。
「話し合いとか、セッティングはオレがすっからァ。とにかく一人でどうにかしようとか思うなよ」
「余計なことするなってこと?」
 美人が機嫌を損ねると怖い、と冷えた声音に黒田は内心戦いたが、荒北は平然と応じた。
「オレ、一人でトラブル片づけようとするバカ、超キライ。あと、そーじゃなくて、女が頭に血のぼってる男二人相手にするなんて、どう考えたって危ねェだろが。オレかこの一年坊主いくらでも使っていいから、何かある前に、すぐ呼べ。いいな?」
 勝手に巻き込まれて何事かと思うが、この空気で余計なことを言うと、荒北に殴られそうなので口を噤む。
「一つ、聞いていい? 何で荒北が東堂様のためにそこまでするの?」
「……アイツをトラブルに突っ込ませないようにして、インハイメンバー選抜までにコンディションをベストに持ってくのが、オレの今の仕事なの」
 初めて聞いたが、荒北の表情は非常に苦々しく、嫌そうだったので、むしろ本当なのだろうと思う。
 聞いた彼女も同じように判断したようで、晴れやかに笑った。
「私も、東堂様のためにがんばる」
「……クラスメイトを様付けする奴に言っても分かンねーと思うけど、言われたからやってるだけで、オレのはアイツのためじゃねェんだけど」
 まあ、照れ隠しである。
 思った瞬間に拳骨を落とされて、本当に面倒な男だと思う。
「とりあえず、焦って解決しようとすんなって話」
 大丈夫、と告げられ、懐疑的な表情を浮かべた荒北に、ファンクラブ会員はにっこりと微笑んだ。
「私達は、東堂様に顔向けできないような真似は絶対にしないの」
「…………オレには、何一つ理解できねェ」
 全面的に、黒田もその意見には賛成だった。

「で、どういうことなんすか?」
 彼女が立ち去ってから、さっぱり分からない状況の説明を求めるが、面倒くさそうな顔をした荒北がそっぽを向いた。
「あんた、さっきあの先輩にオレ使えとか言いましたよねえ! 説明してくれなきゃ対応も何もないんすけど!」
 噛みつくと、うるさそうな顔をするが、主張は認めてくれたらしい。だるそうにベンチに腰掛けた男が頭を掻いた。
「テニス部員の女を東堂が盗ったとかいう話な、さっきの奴なんだけど。なんか、一年の頃にテニス部の奴と付き合ってて、練習見に行ったりしてたら、そのうちに彼氏の友達がちょっかいかけてくるようになって。で、彼氏が浮気したとか疑い出して、DV一歩手前みたいな目にあって、嫌になって彼氏と別れて、ちょっかい出してきた奴とも関わりたくないから、テニス部に一切近寄るのやめた、みたいのが二月くらいまでの話」
「……なんか泥沼な」
 どちらもテニス部の目立つ選手で、彼女も美人だったので、一部ではちょっとしたゴシップ扱いされていたらしいが、よその部の、一学年上の恋愛事情など知ったことではないし、実際荒北も全く知らなかったらしい。
「で、もう恋愛とか男とか、全部嫌になったとかで」
 その気持ちはなんとなく想像はつく。
「四月に東堂が女装してんのを、軽い気持ちで友達と応援に行ってみたら、スゲー楽しくてファンクラブに入ったンだと」
 オチが予想外だった。
「……なんすか、その宝塚にハマった女の子みたいな」
「まぁ、東堂のアレ、キャーキャー騒ぐの楽しいみたいなのの集まりだからなァ」
 そういう雰囲気は確かに感じるが。
「じゃあ、東堂さんが盗ったとかじゃなくて、ファンクラブ入ったってだけなんすか?」
「元カレともう一人が揃ってどっちか選べって、しつこくアホなこと言いに来た時に、東堂の名前出したのは確からしいンだけどな。そいつらより、東堂の方がいいみたいな。で、それ結構人が聞いてるとこだったから、テニス部で三角関係やってたら東堂に盗られたって噂になったらしい?」
 それが、黒田が小耳に挟んだ噂話だろう。
「で、バカにされたって逆恨みして、ここ最近東堂に絡んできてたと」
「東堂さん、全然関係なくないっすか、それ!」
「だから、これ以上アホなことに巻き込まれる前に片づけンだろが。アイツのせいなら、首根っこ掴んで謝らせてるっつーの。この件、アイツが気づくと責任ねェのにテンション下がりかねねーし、とっとと終わらせる。あの馬鹿、ほっとくと意味分かンねートラブルにすぐ巻き込まれンだよ、っとにもう……」
 疲れたように深々と嘆息した荒北に買ってきたペットボトルを差し出すと、一口呷った荒北がじろりと黒田を睨めつけた。
「ナニ?」
「荒北さんって、本当に東堂さんのこと最優先っすよね」
「福ちゃんのオーダーじゃなきゃ、してねェよ!」
 そうだろうか、と思った瞬間に後頭部をはたかれて、本当に面倒な男だと思う。
「とにかく! 東堂に対する嫌がらせはクラスも違うし、今のとこあんま実害ねェから。むしろ、ヤバイのはあの子」
 聞いているだけで、たちの悪い男二人に絡まれているようなので、その通りだろう。
「オレ、あの子とクラス一緒だから、基本オレが気をつけとくけど、オレが対応できねー時はお前も手伝え」
「分かりました」
 こういった事情なら、荒北の命令だからと無意味に逆らうこともない。
 ただ、なんとなく思うのだが。
「何だよ?」
「彼女、今度は荒北さんに惚れちゃいません?」
「ねェよ、何でだよ」
 本当に分かっていないらしい男に、黒田は一つ嘆息する。
 最初に彼がモテると聞いた時は、何の冗談かと思ったが。
 大変に腹の立つことに、彼はとても格好いい。

 片づいた、と何気なく伝えられたのはその三日後の夕食の時間の食堂で、大盛りのカツカレーを載せたトレイを両手に一つずつ持った荒北に、一瞬何のことかと悩み、テニス部の件だと気が付いた。
 どうやって、と問えば話し合い、と面倒そうに応じるが、絶対に話し合いだけで済んだとは思えない。
「まだしばらくは様子見ろよ」
 警戒は怠るな、と言いたいことだけ言って、もう用はないとばかりに去ろうとする男に腹が立って、トレイに皿を急いで載せて後を追う。ちらりと振り返った荒北が面倒そうな顔をしたが、来るなとは言わなかった。
「東堂ォ」
 名前を呼ばれ、差し出された夕食のトレイを、先にテーブルに着いていた東堂が仏頂面で受け取った。
 量が多すぎるだの、勝手に盛るなと怒るのは少し前に諦めたようだが、納得したわけではないとここしばらく食事の度に不機嫌な顔をしている。
「水」
「…………ヘイヘイ」
 機嫌の悪い東堂に逆らうのは面倒だと判断したのか、おとなしく給水器の方に向かいかけるが、その前に荒北は東堂の首に手を伸ばした。
 するりと撫でるように首に触れる仕草は見慣れたが、どういう意図なのかはさっぱり分からない。東堂も平然としているので、彼らにとっては日常なのだろう。
 理解不能な人達だと思いながら、横に座ると東堂がちらりと黒田に目を向けてきた。
「お、今日も金魚の糞やってるな」
「やってません! 用があって仕方なく話してるだけです!」
 東堂達がいる場で、荒北がこれ以上テニス部の顛末について聞かせてくれることもないだろうが。
「そうか。まあ、そういうことにしておこう」
 東堂の台詞もいちいち腹の立つ言い方である。
「なあ、尽八、一つ聞いていい?」
 既にカレーに手を付けながら、新開が横から口を出した。
「最近の、靖友が尽八の首掴むの、あれ何?」
「知らん」
 分かってないのに平然としていたのか、とほとほと呆れる。
「太さを確認しているのだと思っていたが」
「よく太ったら食われそうで、ぞっとしないな」
「あー、ヘンゼルとグレーテルみたいな」
 福富の言葉に、東堂と新開が好き勝手なことを言う。
「そもそもフクはあいつに何を言ったんだ? 最近鬱陶しくてたまらん」
「荒北がしたいだろうことを、頼んだだけだ。オーダーと言わないと、意地を張るからな」
「迷惑だ」
 撤回しろ、と何も知らないくせに要求するその無神経さに、一瞬腹の底から怒りが湧上がった。
「アンタなあっ!」
 あの男が、どれだけ東堂のことを考えて、守ろうとしているのか知りもしないで、と激昂しかけた黒田を、冷ややかな目が黙らせた。
「オレは、あいつの捨て鉢なところが心底嫌いだ。自分が傷物だとでも思って、未だにはぐれ者のつもりで、問題は自分が被ればいいと思っている。何をこそこそしているか、聞きはしないが」
 ふざけるなよ、と刺してきた冷たい声音に冷水を浴びせられたような気分になる。
 本人に気づかれる前に片づけると荒北は言っていたが、これまで態度に出していなかっただけで、東堂は己のファンクラブにまつわる一連の問題をある程度は把握している。
「オレはペダル回すためにここにいるんだ。アイツのことなんか、一ミリたりとも考えたくない。目障りだ、余計な真似をするな」
 荒北は、東堂に嫌われていると言った。
 何をらしくもなくネガティブなことを言っているのかと、あの時は思ったが、これは。
「つまり、靖友のことばっか考えてて、ついつい目で追っちゃうし、自分のことを優先してほしいって意訳でオーケー?」
「全然よくない!」
 横から大変ポジティブに変換した新開に、あれ、と思う。
 先の言葉も逆説的に言えば、一人で泥を被ろうとするなという心配になるのだろうか。
「違うぞ、黒田!」
 口にもしていないことを否定してくる二人は、大変よく似ている気がする。
 ついでに、非常に分かり難いところもよく似ている。
「両思いなんだよなぁ」
 へらりと笑って片づけた新開の横で、きっぱりと福富がうなずいた。
「隼人、あーん」
 これ以上余計なことを言うなということだろう、スプーンいっぱいにすくったカレーを新開の口に入れて黙らせた東堂を、水を取って戻ってきた荒北がはたいた。
「新開に食わすな! 食い過ぎだろ、こいつ」
「食べる子は育つ!」
「お前が育て、チビ!」
「小さくないな!?」
 全くいつも通りの言い合いを始めた二人に、結局何なのだと黒田がぼやくと、口の中のものを飲み込んだ新開がにやりと笑う。
「草津の湯でも直らないやつ」
 五月は恋の季節だから、と一癖も二癖もある先輩達の一人が、意味の分からないことを宣った。