東堂尽八はショートスリーパーだ。
実家が旅館で、親も従業員も朝から働いていたのが理由の一つだろう。また、山中にある旅館の立地のため、通学するのに朝早くに起きる必要があった。
家業を継ぐのは姉と目されていたが、一通りの習い事をやらされていたし、親は子供を労働力として数えていたので、裏方の仕事や家事は手伝わされた。
大きくなってから移動手段としてはじめたスポーツバイクに本格的にのめり込み、その練習に裂く時間を確保するには睡眠時間を削るしかなかったのもある。
必然的に短い時間に深く眠るようになり、どうしても睡眠時間が足りなければ、空いた時間に仮眠を取って身体を休ませるやり方を覚えた。仮眠の間に手伝いを要請されればすぐに跳ね起きるが、特に起きる必要がなければ周りに人がいようが、そのまま身体を休ませ続ける。
だから、仮眠中の出来事を把握していないわけではない。気にしていないだけである。
寝顔を写真に撮られようが、顔を撫で回されようが、髪を弄られようが、東堂は気にしない。
眠っている間に好き放題されることを嫌ではないのかと問われ、自分が美しいからしょうがない、と答えた時にはクラスメイトに呆れられたが、東堂は自身がそうやって構われる理由が外見にあることを熟知している。
これが十人並み以下の顔であったら、誰も見向きもしないだろう。
小さな頃から周囲にちやほやされてきたのは、東堂がとても可愛かったからだ。
同時に、その可愛さに対する周囲の態度が小動物やぬいぐるみに向けるようなものであることもよく理解していたので、本気で取り合うつもりもない。
特に、眠っている東堂を一方的に愛でるような行為は、まるで人間扱いされていない。せいぜい愛玩動物、下手をすれば花に向ける態度と変わらない。
人を人とも思わない相手に対し、東堂は相応の態度で遇した。
眠っている間に近づいてくる者を、人間と思わないだけのことである。何をされても気に留めない、草木が風でざわめき、肌に触れる程度のことだと思えば何ともない。
「おめさん、可愛い顔してすげえ冷てぇな」
そう言ったのは高校に入ってできた友人で、そう言われるとまるで己が人非人になったような気がしたが、人を人とも思っていないのは東堂の方ではない。
不満げな顔をした東堂に、新開がにやりと笑って頭を撫でてきた。
彼は東堂が起きていようが寝ていようが態度が変わらないので、触れてくること自体は気にならない。
「尽八は王子様なんか待ってないもんな」
「当たり前だ」
スリーピング・ビューティという二つ名は、東堂の静かで無駄のないクライムに対して冠されたものだったが、この周囲を気に留めない眠りっぷりと相俟って学園内で浸透した。
そのことは別に構わないのだが、その二つ名が妙な具合に作用するのには少々困惑している。
「見るのも写真を撮るのも触るのも好きにすればいいんだが、さすがにキスはどうかと思うな」
「されたの?」
「されそうになった」
近すぎる気配に目を開けたら至近距離に人の顔があったのは、さすがに困った。
悲鳴を上げて逃げ出すくらいなら、最初から意識のない人間にそんな真似を仕掛けないでほしい。
「男、女?」
「両方」
口笛を吹いた新開は明らかに面白がっているが、東堂としては別に面白くも何ともない。
好きでもない相手とキスをする趣味はないし、寝込みを襲うのはさすがに人格無視に程がある。
「やっぱ、眠り姫はキスで起こしたくなるもんなのかね?」
「迷惑な話だ」
「でもその辺で寝るのはやめねーの?」
「どうしてだ?」
何故だと問うと、新開は少し奇妙な顔をした。
「キスが未遂で済まなかったらどーすんの?」
「どうもしない」
「……ヤなんだよな?」
「いい気はしないが、オレに関係ないだろう?」
相手は完全に東堂の人格を無視しているのだ、東堂もそんな相手の人格を尊重する必要を感じない。感じるのは寝ている間に虫にまとわりつかれた程度の不快感であって、それ以上でもそれ以下でもない。
きっぱりと言い切ると、新開が苦笑した。
「徹底してんなあ」
「問題あるか?」
「や、いいんじゃない? オレはそんくらいの方が好きかな」
頭を撫でる手はともかく、ねんねと笑われたことは非常に不満だった。
誰かが横に立って、髪に触れたのは気がついていた。
よくあることなので、気にはせずにそのまま昼休みの短い時間を休息に充て続けていると、起きろ、と怒鳴られた。
休憩時間はまだあるし、何か用があって起こそうとしているわけではなさそうだったので、きっぱりと無視する。
入学して数ヶ月、東堂の存在は既に学園内で有名で、少々特殊な眠り癖も広く知られている。揺さぶられようが大声で喚かれようが、一切遮断して目を閉じていれば、やがて皆諦めた。
放っておけば今回も諦めるだろう、と楽観していたが、この相手は随分としつこく、しかも声が次第に本気の焦りを帯びてきた。予鈴を切っ掛けに目を開ければ、予想外の人物の姿があって、少し驚いた。
荒北靖友。つい最近、東堂も所属する自転車競技部に入部してきた男子生徒だったが、少し前まで素行不良を地で行く一昔前のヤンキーのような風体で、未だその振る舞いはさほどまともになっていない。周囲に向かってむやみに噛みつき、声を荒げ、行動の全てが粗暴だ。
まず最初の出会いで大喧嘩をし、その後何度か歩み寄ろうとしたが全てはねつけられ、東堂は彼と仲良くなろうとする努力を放棄した。
どうやら自転車部に誘った福富には懐いたようだったが、それ以外の誰とも馴染む様子がなかったので、正直なところ、これ以上部に不和を引き起こす前に辞めて欲しいと思っている。
その福富から、荒北がどうやっても目を開けない東堂を心配していたのだと聞かされて、ただ困惑した。そんな、優しさを他人に向けるような男だとは思っていなかったのだが、疲弊しきった顔は、どうやら本当に焦っていたようだった。
「心配させたのならすまなかった」
謝罪と一緒に頭を撫でてみると、珍妙な顔をする。
そのまま、もう関わらなくていいと言い渡すと、更に渋い顔をした荒北は、結局人の言うことを聞きはしなかった。
かわいい、を中心とした賑やかな声は馴染みのもので、合間に聞こえてくる携帯電話のシャッター音も東堂は気にしない。そっと伸ばされて頬や髪を触れる指も、いちいち気に留めない。
道端で眠っている猫を見つけたような反応と、全く差はない。
そのまま眠り続けるふてぶてしい野良猫のような対応を選択している東堂は、不意に周囲の空気が変わったことに気がついた。
取り巻いていた少女達の気配が急に遠のいて、代わりに一度舌打ちが聞こえた。
薄く目を開けると、睨み付けてくる鋭い眼と視線が合った。
「起きたァ?」
どうやら、通りすがりに罪もない女の子達を剣呑な顔で威嚇して追い散らしたらしい荒北の姿を見上げ、ゆっくりと瞬きをし、東堂は再び目を閉ざした。
女子が逃げ出した原因は判明したし、他に何も問題はない。
「……二度寝かヨ」
嘆息混じりにぼやく声が聞こえたが、気にせずに身体を眠らせる。意識は一応、あまり東堂に好感情を抱いていないチームメイトの挙動を窺うようにしたが、こちらに近づいてくる気配はなく、嫌がらせを仕掛けてくる様子もなかったので、おそらくそのまま立ち去ったのだろう。
昼休みの中庭は、そこに配置されたテーブルで昼を食べる生徒や、購買や食堂への通り道として使う生徒などで往来が多く、通りすがりに構われることも多いのだが、今日は妙に周囲が静かだった。
よく寝た、と昼休み終了間際に目を開けて、身体を起こそうとしてすぐ横にあった人の姿に驚愕する。跳ね起きた東堂につられたように驚いた顔をしたチームメイトが、状況が咄嗟に理解できずに固まっている東堂を見て吹き出した。
「アキちゃんみてー」
言って、伸ばされてきた手が、頭の上で弾んだ。
「今度こそ起きたァ?」
すぐに手が届く距離にいて、全く気配に気づかなかったことに目を白黒させていると、寝ぼけているな、と嘆息される。
「授業遅れンなよ」
筋張った手がぐしゃぐしゃと東堂の髪をかき混ぜ、そう言い置いて立ち上がった荒北の、猫背気味の痩せた背中を呆然と見送った。
「…………何なんだ、あいつは?」
その後、同じようなことが数度続いて、理解はできなかったが、状況には慣れた。
急に周囲が静かになれば、目つきと態度の悪い男が上級生が相手だろうと気にせず追い散らし、勝手に近くに居座って東堂が起きるのを待っている。その間、こちらを見るでもなく、触れてくるわけでもない。東堂が目を開ければ、一つ小突いて去って行く。
一緒に部に行こうと待っているわけでもなければ、鑑賞や愛玩しようというわけでもない。何がしたいのかはさっぱり分からなかったが、荒北が隣に陣取っていると、周囲が静かだった。
騒がれるのは好きだが、身体を休ませたい時にあまり騒々しいのは困るので、いるだけで人払いをする元不良は便利ではあった。東堂が起きている時は、常に何かしら不満を喚き、乱暴な所作で物が壊れるのではないかと思うほど騒音を立てて回るくせに、眠っている東堂の横にいるときはひどく静かだ。
目を閉じていれば、空気はただ平穏で、東堂は荒北の存在に慣れた。
その矢先のことだった。
今日は上級生の男子生徒を追い散らして、ち、と一つ舌打ちが聞こえて、来たな、と思う。
また少し離れたところに腰を下ろして、福富から渡された雑誌でも読み始めるのだろう、と思っていたが、目の前に立った気配がいつまで経っても退かなかった。
「くそッ」
短い罵り声が間近で聞こえて、不意に両腕を強く掴まれて引き起こされた。初めて眠っている東堂に遭遇した際に起こそうとした時以来の接触に、ひどく驚いて飛び起きる。
「…………アー、悪ィ」
全身を強張らせて、至近距離の荒北の顔を呆然と見上げると、焦った顔で手を離された。
「もうしねーから」
両手を広げてもう無理に触れない、と示した荒北に、反応に困る。
「東堂?」
何をするつもりだったのかを口に出して問えば、また喧嘩になるのは目に見えていた。どうにも東堂と荒北は相性が悪い。喋り出すと売り言葉に買い言葉で、たちまち口論が激化する。
好きにさせてみよう、と目を閉じてぱたりと前に倒れ込めば、目測通り痩せた肩に頭が落ち着いた。
「……って、寝ぼけてんのかよ」
ずり落ちかけた背を支えた荒北が耳元でほっとしたようにぼやき、しばらく宥めるように背を撫でていた手がしっかりと脇に回された。
「おっも」
浮遊感と共に、足が宙を蹴った。
「チビのくせに重っ」
言われるほど小さくなどないし、その身についているのは全て筋肉だ、軽いはずがない。
腹が立ったので、抵抗せずに全身の力を抜いて負担を増やしてやって、人を荷物のように担ぎ上げてどうするつもりなのかを窺っていると、ひょろりとした外見よりも随分と力のあるチームメイトは、どうやらクラブ棟のある方向に向かっているようだった。
どこかで音を上げると思っていたが、好奇の目を向けてくるすれ違う相手を威嚇しながら人一人担いで学園を横断しきった荒北は、舌打ちしながら東堂の身体を部室のベンチに放り捨てた。
「どうしたの、ソレ?」
「どうもこうもねえよ! このバカ、そこら辺でほいほい寝やがって!」
「尽八はそういう生き物だから、放っておいて大丈夫だって」
「大丈夫じゃネエよ!」
面白がっている新開に、荒北が噛みつくのが聞こえる。
「女だけじゃなくて、野郎にもベタベタ触られてんだぞ、コイツ!」
「別に尽八は気にしてないし」
「オレだったら絶対ヤだ」
随分と勝手なことを言う。
荒北と東堂では物の考え方が決定的に違うし、その価値観を勝手に押しつけられるのも迷惑な話だ。起き上がって文句を言おうか悩んで、面倒だと諦める。
部活開始まで寝よう、となおも何か言い合っている荒北と新開を意識から切り離した。
「…………最近さ、尽八やたらと寝てるよな」
「ア?」
ことん、と物のように睡る友人の様子を見やり、新開が苦笑すると、何を言ってるのだと荒北が顔をしかめる。
「コイツのは前からダロ」
「靖友が入ってくる前はそーだったんだけど」
練習の厳しい自転車部に所属して、地元の実家からの通学も天候に関わらず自転車。帰ってから旅館の手伝いもしていると言っていた春先のチームメイトは、明らかにオーバーワーク気味で、休憩時間には必ず眠り込んでいた。
実家の方でも、さすがに無理だと判断したのだろう、東堂が入寮してきたのは五月も終わりになってからのことで、高校の三年間を自転車に全力で使えるようになった、と喜んでいた。
自転車を本気でやりたいから箱根の私立高校に入って寮生活をする、という進学を受け入れてもらえる家庭に育った新開と、東堂のものの考え方は全く異なっていたので、理解できないことも多かったが、友人が疲れ果てた顔で気絶するように眠らずにすむようになったのは良かった。
「尽八って、全然寝なくても元気なんだよなあ」
早起きは習性になっているのだろう。他の寮生が起きる数時間前に起き出して、自主練をした後に部の朝練に参加し、そしてあのテンションである。
どれだけエネルギーが有り余っているのかと呆れるくらいで、休憩時間の昏睡も絶えていた。
「ここ最近、またやたらと寝てんだよなあ」
疲れているわけでもなさそうなのだが、妙によく寝ている。
「……王子様待ちだったらどうしよう?」
「オレとしては、テメエの頭がどうしようだっつーの」
心配そうな顔で何を言っている、と苦々しく告げると、両肩を掴まれまじまじと見据えられた。
「一回試しに尽八にチューしてみねぇか?」
「テメエ、ほんと一回死ネ」
「起きるか起きないか試してみようぜ?」
「触られまくっても、持ち運んでも全然起きねーバカが、起きるわけねーだろが。コイツの危機管理能力どーなってんだよ」
「んー、尽八、その辺ちょっと考え方危なっかしいんだよなあ。ある意味すっげー徹底してんだけど、他人がそれを考慮してくれるわけじゃねえって分かってんのかなっていう」
「つまりバカなの?」
身も蓋もない荒北の毒舌に、新開は首を捻った。
「なんつーのかな、尽八ってさ、今冬眠中なんだよ。周りがどんだけ騒いでも基本的に起きないし、気にしない」
「いつ起きンだよ?」
傍迷惑な、と顔をしかめた荒北に、新開は真顔で応じた。
「恋の季節になったらかなあ?」
箱根の山って春が遅いよな、などと嘯いたチームメイトの頭に、荒北はもはや何も言わずに拳骨を落とした。
